症例報告からレジストリ研究の時代へ 症例報告からレジストリ研究の時代へ

第5回日本腫瘍循環器学会学術集会(会長・東京大学大学院医学系研究科循環器内科学・小室一成教授)が2022年9月17日から18日までの2日間にわたって完全Web開催の形で開催された。テーマは「THE NEXT STAGE OF ONCO-CARDIOLOGY エビデンス協創のステージへ。」現在のがん診療における腫瘍循環器学の重要性の高まりが認識されると同時に、欧米先行のこの分野で日本独自のエビデンスをいかに構築していくか、その方法に関心が集まった。

「2年前に左乳がんを手術し、術後薬物療法を受けていたが、心機能が低下し、主治医から『治療が継続できない』と言われ、途方に暮れた。今の病院では乳がんの専門医と循環器の専門医とのチームがあり、治療が再開できることになった。そのときのほっとした気持ちは死ぬまで忘れない。」シンポジウム8『腫瘍循環器の将来展望-様々な立場からの提言』で患者側の立場から講演した渡辺氏(仮名)の発言は、腫瘍循環器の重要性と施設によっては十分な医療体制がない現状を示すものであった。言い換えれば、循環器に出現した障害が原因で十分ながん治療が継続できない事例が日本国内ではまだあるということだ。

シンポジウムのパネリストとなった小室一成会長(東京大学大学院循環器内科学教授)は「これまで心臓とがんは疎遠な病気だった。心臓に起こるがんはほとんどなく、循環器の医師はがん患者をほとんど診療する機会がなかった。一方でがんの専門医には心臓血管を熟知する人材がいないという状態が続いていた。しかし、がん治療の進歩で長生きする患者が出てくると、循環器の専門医が関与する必要性が出てきた。2017年にこの学会を立ち上げたが、まだ十分に活動できているとは言いがたい。患者を十分救えているとは言えない。がんは克服できたが心臓死している患者が少なくない」とコメントした。

小室会長が指摘した6つの課題

このシンポジウムの前日に行った会長講演「THE NEXT STAGE OF ONCO-CARDIOLOGY エビデンス協創のステージへ」の中で、小室会長はわが国の腫瘍循環器の課題として以下の6点を指摘した。

  1. 啓発、普及、教育
  2. 診療体制の整備
  3. ガイドラインの策定と普及
  4. 疫学研究、臨床研究の推進
  5. 病態解明のための基礎研究の推進
  6. 産官学連携のための戦略的取り組み

患者の渡辺氏はからくも腫瘍循環器治療ができる医療機関にたどりつくことができたが、実際に診療体制が充実している医療機関は少ない。小室会長は「より一層の啓発と普及が必要」と指摘しつつ、特に循環器の専門医がいないがん専門病院が多いことから人員配置の拡充の重要性を訴えた。

ガイドラインについては作業チームがドラフトを完成させており、2023年の公開を予定している。その過程で浮き彫りになったことが日本発のエビデンスの少なさ。腫瘍循環器は欧米で誕生し、基礎研究も臨床研究も欧米が先行している。日本腫瘍循環器学会では、ガイドライン整備前の日常診療の指針となる『腫瘍循環器診療ハンドブック』(メジカルビュー社)を2020年11月30日に刊行しているが、これは主に欧米の研究報告をベースにしている。診療ガイドラインは臨床とともに今後の臨床研究の充実に向けた未解明の課題を明らかにする役割も担っている。本学術集会ではこのガイドラインをめぐるガイドラインセッション『腫瘍循環器ガイドラインの展望』も開催された(後述)。

小室会長は学術集会における発表の傾向として「以前の症例発表からレジストリ研究が増えつつある」と発言している。がん診療の現場で循環器障害がどのように起こっているのかの実態把握とそうした事象にどのような対策が取られているのか、医療機関単位の報告が散見されるが全国の実態を把握するためには、疫学研究、臨床研究が必要だ。実臨床のデータを解析するReal World Dataの利用が活発化するなど、臨床研究も過渡期にあり、こうした新しい方法論をどのように活用するかについて、本学術集会でもシンポジウム2『会長特別企画/腫瘍循環器研究、レジストリ研究からRCTの実現まで』が企画された(後述)。

静脈血栓塞栓症の有用なバイオマーカーは何か?

わが国初めての腫瘍循環器診療に関するガイドラインの作成が進んでいる。本文は28人の専門家が執筆にあたり、外部評価の意見を集約中だ。学術集会では6人の専門家ががん薬物療法に伴う静脈血栓塞栓症(VTE)、心毒性のある薬剤投与時の心保護薬投与の有用性、心血管疾患のあるHER2陽性乳がん患者における薬物療法、心エコー図検査におけるGLS(Global Longitudinal Strain)の意義についての報告があった。

「がん薬物療法に伴うVTEの診療におけるバイオマーカーは推奨されるか」という設問について、東京都済生会中央病院臨床検査医学科の窓岩清治部長は、D-ダイマーなどのバイオマーカーに関する研究報告を吟味しつつ、「凝固線溶系バイオマーカーに関するRCT(ランダム化比較試験)がなく、臨床研究の報告が複数あるものの、十分なエビデンスの集積がなく今後の検討課題である」と説明した。

「心毒性のある薬剤の投与時に心保護目的に心保護薬の投与は有用か」という臨床質問について、国立国際医療研究センター病院の下村昭彦・がん総合内科長が解説した。心保護薬にはアンジオテンシン受容体、アンジオテンシン変換酵素阻害薬、ベータ阻害薬があり、日常診療でがん薬物療法時に使用されることがあるが、下村科長は「これらの薬剤はがん薬物療法における心保護目的に用いる有用性は明らかになっていない」と述べた。そのためアンスラサイクリン投与時に心保護目的にベータ阻害薬が有用である可能性があるが、海外と日本とで用量が異なることからガイドラインとしての推奨は決定しなかったと説明した。

「心血管疾患のあるHER2陽性乳がん患者にトラスツズマブやペルツズマブなどの抗HER2療法を行うべきか」との課題については、HER2陽性乳がん患者における抗HER2薬の高い有用性が重視された。解説した愛知県がんセンター乳腺科の澤木正孝教授は、「抗HER2薬の高い有効性を得る機会を失うのを避ける」ことの重要性を指摘し、「その投与前や投与中に循環器科と共同し慎重に投与することを前提において益が害を上回ることから抗HER2薬の投与を提案するという結論に至った」と語った。またHER2胃がんについては今後の課題であるとした。

ガイドラインではまだ十分な回答が得られない臨床質問が数多くあり、今後の研究の課題をあぶり出す結果となった。ガイドラインセッションの座長を務めた順天堂大学大学院医学研究科臨床薬理学の佐瀬一洋教授は「(循環器の領域ではなじみが薄い)Minds(Medical Information Distribution Service)をもとにがん専門医と循環器専門医が集まって作ったことに意義がある」と指摘した。

レジストリ研究には学会からの戦略的支援を

腫瘍循環器の臨床研究が始まっており、シンポジウム2『会長特別企画/腫瘍循環器研究、レジストリ研究からRCTの実現まで』では国際医療福祉大学三田病院の田村雄一教授が中心になって進める「免疫チェックポイント阻害薬の安全使用に資するirAE心筋障害の全国多施設レジストリ」、国際医療福祉大学成田病院循環器内科学杉村宏一郎教授らの「乳がん治療による心臓合併症の疫学と発症リスクに関する前向き多施設共同研究」CHECK HEART-BC studyの報告があった(いずれも別の記事で詳報)。

Stroke Oncologyの提唱:日本脳卒中学会との連携

今回の学術集会では、がんと脳卒中の併発にもスポットがあたった。教育セッション2『Stroke Oncology』では、日本脳卒中学会から杏林大学医学部脳神経外科の塩川芳昭主任教授(副院長)、自治医科大学神経内科学の藤本茂教授が、がんの側からがん研究会有明病院乳腺内科の高野利実部長らが現状と課題を報告した。

日本脳卒中学会では塩川教授を中心にStroke Oncologyに関するプロジェクトチームを組織している。同教授は「がん、脳卒中について治療が進歩し、患者の状態・予後が顕著に改善しているにもかかわらず、おのおのの治療者は必ずしもその最新の知見を把握しているといえず、両疾患を併存する患者において適切な治療が行われていない、もしくは、差し控えられている懸念がある」と指摘した。

つまり担がん患者に発症した脳卒中に必要な治療が行われていないケースがあり、対照的に脳卒中患者ではがんが発症してもがん治療が行われていないことがあるという。こうした問題に体系的に対処するために、塩川教授はStroke Oncologyという概念を提唱した。 「がん関連脳卒中は日常診療で遭遇する疾患であり、病態・患者管理について多くの課題がある」と語った。具体的には

  1. 関係医療者への啓発
  2. がんの専門医とも連携した組織拡大
  3. 診療ガイドラインの作成
  4. 社会への発信

の4点だと指摘した。

藤本教授は「塞栓源不明の脳塞栓症の症例では複数の血管に多発する脳梗塞症例に遭遇するが、その原因診断においてがんとの鑑別が不可欠なものになっている」と指摘した。塞栓源不明の脳塞栓症の精査の過程で新たながんが発見されることも珍しくない。

がん関連脳梗塞に対しては、ヘパリンの点滴静注・皮下注や経口抗凝固薬(DOAC)による2次予防が選択されることが多いが、「その適応には、がんの予後や易出血性などに配慮した判断が求められる」とがんと脳梗塞の合併症対策の現状を説明した。さらに、そのような患者では脳卒中に必要なリハビリテーションとがん治療が拮抗することがあり、両者の治療の両立の妨げになっているとも指摘した。

塩川教授は「脳卒中とがんの合併の問題については多くの脳神経外科医がうすうす気づいていたが、積極的な対策を取ってこなかった。循環器の専門医らが日本腫瘍循環器学会を発足させたことに触発された。今後、日本腫瘍循環器学会の活動を参考にStroke Oncologyの問題に取り組んでいきたい」と語った。

がんと循環器障害を結ぶクローン性造血

加齢とともに造血幹細胞のゲノムに変異が蓄積されるクローン造血(Clonal Hematopoiesis)が造血器腫瘍の危険因子になることが知られているが、近年は心不全などの循環器疾患やアルツハイマー病などの神経変性疾患の頻度を上昇させることが注目されている。さらにこのクローン造血が治療によってもたらされたクローン選択の結果であるとの報告が相次いでいる。

Keynote Lecture 4「Clonal Hematopoiesis: At the interface of cardiovascular disease and cancer」のテーマで講演した米国Virginia大学医学部のKenneth Walsh教授は「クローン造血を介してがんと循環器疾患のリスクが共有されることになる」と指摘した。同教授によると「がんサバイバーにみられる晩期性の循環器不全には治療に関連したクローン造血(therapy related CH: t-CH)が関係している可能性がある」という。

Walsh教授の研究グループが骨髄移植やゲノム編集などによってt-CHを再現させたマウスでは造血器腫瘍が増えるという傾向はみられなかったが、動脈硬化や心不全は増加する傾向が認められた。まだ研究が必要と強調しつつ、Walsh教授は「造血幹細胞ゲノムの突然変異がダーウィン選択された結果、クローン増殖が全身に広まる。t-CHを評価することによってがんサバイバーの循環器疾患のリスクを知るうえで有益である」と語った。

学際的な腫瘍循環器学をどのように発展させるか

腫瘍循環器は腫瘍学と循環器学との学際領域の学問であり、恒常的に発展させていく体制がまだ整っているとはいえない状況にある。腫瘍循環器学を充実させるために日本で研究体制を構築していく必要があるが、そのための模索も続いている。それを示す象徴的なやり取りが本学術集会でもあった。

前述のシンポジウム8で、神戸大学大学院医学研究科腫瘍・血液内科学の南博信教授の「日本の研究体制をどのように作っていくべきか」という問いかけに小室会長は「それはどこから資金を得るのかという問いかけだと思うが、どこからと問われればAMED(国立研究開発法人・日本医療研究開発機構)ということになる。AMEDにはいろいろな枠があるが、循環器の枠はがんに比べると小さい。腫瘍循環器研究の枠は、がんの枠で確保してほしい」と要望した。

腫瘍循環器学は黎明期にあり、研究推進にも脆弱性があることは否定できない。しかし、それでも前に進むべきと小室会長は強調した。「AMEDからは研究成果を示すことを求められることになるが、限られた資金の中で成果を出して、それをAMEDにアピールするという好循環をつくっていきたい」と語った。