腫瘍循環器はがん治療の新しいパラダイム 腫瘍循環器はがん治療の新しいパラダイム

腫瘍循環器学はがんと循環器疾患との境界に誕生した新しい学問領域。日本腫瘍循環器学会の発起人の1 人であり、理事長を務める小室一成(こむろ・いっせい)先生に腫瘍循環器学会が目指すゴールやミッションについてお話を伺いました。(聞き手:小崎丈太郎)

小室一成先生

腫瘍循環器学という新しい学際領域が非常に注目されています。その理由を先生はどのように考えていますか。

小室腫瘍循環器学は、心不全や血栓症などの循環器疾患を発症するがんの患者さんが増えてきたことにより、がんと循環器の双方の専門家が連携して診療・研究しようということで生まれた新しい学際領域です。
腫瘍循環器学が注目されるようになった最も大きな理由は、がん治療の急速な進歩です。かつてがんの予後は非常に悪かったために、がん以外の疾患について配慮することはほとんどありませんでした。しかし、がんの基礎研究の進歩により、ドライバー遺伝子変異を始めとするがんの発症機序が明らかになり、分子標的治療薬が開発された結果、生存期間が大幅に改善しました。さらに免疫チェックポイント阻害薬も登場し、これら薬剤のコンビネーションによってがんが長期生存できる疾患になり、治癒も期待できるようになりました。その結果、がんの治療中や治療後に循環器疾患を発症する患者さんが非常に増えてきました。

がん治療はうまくいったが心不全で亡くなるという事例がでるほどがん医療が進歩したということですね。

小室またこれもがん治療が進んだことに関係しますが、かなり高齢の患者さんにもがん治療を行うことが多くなりました。高齢者は、循環器疾患の予備軍と言ってもよいほど、あと少しの傷害が加わることで心不全や心房細動などの循環器疾患を発症します。ほとんど全ての抗がん剤や放射線治療が心臓や血管を傷害するので、がん治療はこうした高齢者の背中を押すことによって循環器疾患を発症させます。

院内でも疎遠だった循環器医と腫瘍医

腫瘍循環器は循環器とがんという異なった医療の境界に誕生した新しい領域です。ご苦労もあるのでしょうね。

小室まず心臓はがんになりませんから、循環器医にとってがんは最も縁がない疾患でした。がんの先生方にとっても同じだと思います。がんの術前の心臓検査で異常が見つかった時や治療中に循環器疾患を発症した時にたまに相談に応じる程度でした。しかしがんに罹患しても長生きできる時代になり、がん患者が心不全や心房細動、心筋梗塞などの循環器疾患を発症する、逆に循環器疾患患者の検査をしたところがんが見つかるなどということが大変多くなってきました。したがって双方の領域の専門家の連携の重要性が急速に増してきました。

東京大学医学部附属病院では腫瘍循環器外来を開設して診療にあたっています。循環器医療とがん医療の連携の象徴だと思いますが、このように連携が具体化するきっかけはどこにありましたか。

小室外来で化学療法を行っているがん患者の1割近くが血栓症で亡くなるという報告がありますが、実際ここ数年、がんの治療中に循環器疾患を発症して循環器内科に紹介されてくる患者さんが増えてきました。循環器医としては、がん患者が循環器疾患を発症することなく、がん治療を完遂してもらいたい。そのためにも早い段階で相談していただければ、心筋保護や血栓を溶かす治療を行いつつ、がん治療が継続できるのではないかと考えました。
そこで我々の方から連携をしませんかと働きかけを行いました。しかしどこの施設でも同様かと思いますが、循環器とがんは最も関係の希薄な2領域であったので今まで連携する体制がありませんでした。循環器以外の多くの科ではがん診療を行っているので、全ての診療科とすぐに連携を始めることは容易ではありません。現在東大病院では徐々に多くの診療科と連携の輪を広げていますが、まずは我々がすぐにできることということで循環器内科の外来において腫瘍循環器の専門外来を始めました。

日本腫瘍循環器学会の活動目標

先生は2017年に日本腫瘍循環器学会を設立されました。第1回の学術集会を2018年に都内で開催し、第4回学術集会は2021年10月の開催が予定されています。この学会の活動目標についてどのように考えていますか。

小室学会設立の経緯ですが、もともと都内の医師らの参加を念頭に腫瘍循環器研究会という形で始めました。すると年々都内に限らず遠方からも参加する人が増えたので学会を立ち上げようと考えました。
学会の目標はたくさんあります。学会として、まず行いたいことは腫瘍循環器に関する啓発です。がん患者さんは血栓を作り易いので血栓塞栓症に注意する必要があります。また治療に伴って心不全、高血圧、不整脈など様々な循環器疾患に罹患することが多いということをがんの専門医や患者さんに知っていただくことが重要です。
また小児がんを克服した人が成人した場合、心筋梗塞や心不全の発症率が一般人の10倍以上になると報告されています。小児がんの治療歴を記録し、長期にわたってフォローすることの必要性を広く知ってもらうことが重要です。
それと関連して予防の重要性も訴えていきたいと思います。前述のとおり特に高齢者は循環器疾患の予備軍であることを広く知ってもらって、がん治療を行うときには循環器疾患にもより注意していただき、適切なタイミングで検査を行い、少しでも異常が発見されたなら早くから治療を行っていただきたいと思います。
実態の把握としての登録も急がなくてはなりません。これは日本に限らず世界的な課題ですが、治療に使った抗がん剤の種類や量、疾患名などを登録し、どのようながん治療がどのような循環器疾患を惹起したのかについて明らかにする必要があります。学会としては、まず手始めに免疫チェックポイント阻害薬による心筋炎についての登録事業をAMEDの助成を得て開始しました。免疫チェックポイント阻害薬による心筋炎は、その頻度こそ高くはありませんが、発症すると約半数が致命的になるというほど重篤です。どのような患者に心筋炎が発症したのか、またどのような治療によって救命できたのかを明らかにし、予防、治療につなげたいと思います。
また診療体制を整備する必要があります。まず、イベントに即応してコンサルテーションができる体制をがん治療部門と循環器治療部門との間に作っておく必要があります。また薬物療法の開始前後に心不全の指標であるBNP(脳性ナトリウム利尿ペプチド)を測定し、心エコーで心機能を評価するなどといったルール作りも重要です。

ガイドラインの整備を急ぎたい

小室学会として重要な使命の1つが診療の手引き、つまりガイドラインの作成です。例えばがん患者の血栓症は大きな問題ですが、がん患者は出血のリスクも高く抗凝固薬を使う際に特段の注意が必要です。こうした治療のためのガイドラインを作りたいと思いますが、その際に問題になるのが、この領域が新しいために十分なエビデンスが蓄積されていないということです。現在日本臨床腫瘍学会と日本腫瘍循環器学会、日本循環器学会等が共同で腫瘍循環器に関するガイドラインを作成中ですが、完成までは2年程かかるのではないかと思います。そこでいち早く診療の目安にしていただこうと考え、腫瘍循環器学会としてハンドブックを作成しました。ガイドラインを作る上においても、先ほどお話ししたレジストリと共に前向きの臨床試験が重要です。
そしてもう1つ学会として重要な使命が基礎研究です。がん治療による心臓血管傷害を防ぐためには、まずその機序を明らかにする必要があります。昔からよく知られた抗がん剤による心不全としてアドリアマイシン心筋症があります。アドリアマイシンといったアントラサイクリン系抗がん剤による心不全は大変有名であり、ある一定の投与量を超えると高率に心不全を発症します。その分子機序に関しても理解が進み、その機序に沿った治療も一部では行われていますが十分ではなく、一旦心不全を発症すると多くは難治性であり、大変予後が不良です。東京大学病院では現在国内でも最も多い心臓移植を行っていますが、中には小児期にがんを患い、大量のアドリアマイシンを投与されたことによって、がんは克服したのですが、治療後10~20年して心不全を発症し、心臓移植を必要とする患者さんが何人もおられます。学会としては、基礎研究を推進し、がん患者やがんを克服した人が循環器疾患にならないようにしたいと考えています。

治療薬についても日本では十分といえない部分がありますね。

小室その通りです。欧米ではがん関連血栓症の治療薬の第1選択が低分子量ヘパリンですが日本では承認されていません。そのため日本臨床腫瘍学会と共同で厚生労働省に早期承認を求める働きかけを行っています。こうした治療薬のラインナップを充実させることも学会の使命だと考えています。

創薬の観点からも今後は循環器イベントを考慮したがん治療薬の開発が必要なのではないでしょうか。

小室製薬会社にも心血管イベントリスクの低いがん治療薬の開発を働き掛けていきたいと思います。以前から心電図上QT延長が認められるために、薬の開発を断念するケースがありましたが、がん治療薬の多くが心不全などのリスクが高い高齢者に使われることを考慮した創薬についても製薬会社と連携して進めていく必要があります。

学会としての課題は山積していますね。

小室私は研修医の時に、アドリアマイシン心筋症の患者さんを受け持ちました。私は心不全を研究テーマにしているのですが、研修医の時の経験が忘れられず、抗がん剤と心不全の関係について研究をしてきました。アドリアマイシンは古い薬ですが、現在でも胃がん、血液がん、乳がんなど多くのがん治療に使われており、特に再発がんでは大量に投与されています。先ほどお話ししたように、東京大学病院では前述のようにアドリアマイシン心筋症のために、心臓移植を待っている患者が常時2~3人います。苦しいがん治療を克服したにもかかわらず、10~20年経過して今度は重症心不全で苦しむ症例が依然として後を絶ちません。この状況を打開したいと考えています。

小室 一成(こむろ・いっせい)先生

1982年東京大学医学部医学科卒業。89年に医学博士取得。米Harvard大学医学部博士研究員、東京大学医学部第三内科助手、同循環器内科講師を経て、01年に千葉大学大学院医学研究院循環器病態医学教授。09年に大阪大学大学院医学系研究科循環器内科学教授、12年に東京大学大学院医学系研究科内科学教授に就任、現在に至る。